晴天が恋しい蝉の声

2020年07月18日

アガサ・クリスティー自伝上下巻

はい、おはようございます。          雪華ホーム

2020ハワイ黄色ハイビスカス



20200713アガサ・クリスティー自伝


クリスティの大ファンとしては、読んでおきたい本だとずっと思っていながら、
上下巻とも500ページの大作の自伝なので、放置しておりました。
このコロナ禍で、良かったことはこれを読めたことくらいなものでしょう。
読み終えるのに十日はこれにかかりっきりでしたが、幸せな時間でございました。
驚いたことに、この方は想像以上にたいへん謙虚なのです。
私にとり、また多くのファンも同様でしょうが、ミステリーの神様のような存在が、
この自伝を読むと、クリスティ女史改めアガサと呼ばして頂きたく思うぐらいに
近しく感じられました。

アガサの傑作の秘密は何なのかと、問われますと答えるのが非常に難しいです。
ネタばらしはできないですし、そもそも、そこじゃないという名作がずらりとあります。
誰でも知っている、オリエント、ナイル、地中海(原題は白昼の悪魔)、
アクロイド、ABC、ひび割れて、死海(原題は死との約束)、カーテン、
いなくなった、ホロー荘、スタイルズ荘……などなど枚挙に暇がないことになるでしょう。
これらは、もちろん素晴らしいしいのですが、
トリックがどうのとか話題になる作品ではなくても素晴らしい作品があります。
アガサらしいといいますか、アガサが確立した手法である事件の前にストーリーが
濃密に描かれるパターンが「エッジウェア卿の死」から始まるのだろうと思うのですが、
「三幕の殺人」「ナイルに死す」「白昼の悪魔」「杉の棺」「五匹の子豚」「満潮に載って」
などが真骨頂かと感じています。「五匹の子豚」のヒロイン、カロリンが切ないですねえ。
この自伝の中に、そんなような文章がどこかにあったのですが、
”真実は今、目にしていることではない”、というような記述が作品の話としてではなく、
出てきたような(なんせ、長編で再び探し出せない)。
アガサのような記憶力が無くて歯がゆい雪華でございますが、
これは、アガサ作品での肝中のキモと思うのです。

1890年9月15日、英国のトーキーで姉兄に次ぐ三女として生まれましたの。
やや下層の貴族(でもこれを中流と呼ぶのか)家庭で、一人で遊び、本をたくさん読み、
声楽やピアノなどの音楽家を志す、少女として育ちます。
上の兄弟とは違ってアガサはいわゆる学校というものに行かないで独自の教育を家庭で受けています。

財政状況が悪くなりお父さんも亡くなりという状況の中、お母さんが頑張ります。
6歳ごろ、南フランスに半年間滞在。これって、アッシュフィールドという名の屋敷を
当時の新興ブルジョアのアメリカ人家庭に貸して、自分たちはホテル住まいとなり、その差額を
収入源とするという方法なんですよ。なにをやっても、お金持ち。
しかもその間に、大きな洋装店で働く若いお針子さんをリクルートしてアガサのフランス語教師
兼家庭内の洋裁担当として雇います。帰国後も一年間でしたが、同行します。
専門の先生ではありませんが、フランス語しか話せない若い娘さんの方がアガサにはお姉さんの
ような存在として良かったようです。
家庭教師としては破格の手当を提示したそうですが、当時は既製服を買いに行くわけでは
なかったようですので、家で繕い物をしてくれる費用も兼ねていると考えれば安くついたそうです。
これでフランス語をばっちり習得。ただ、後年再びパリを訪れた際、
南仏訛りがあると指摘されたり、耳から覚えただけなので綴りには難ありだったそう。
ちょっと笑えます。
16歳ごろ、音楽の習得のためパリに行きますが、ものにならないと挫折したそうで、
その後、お母さんの療養を兼ねて長期のカイロ旅行をするんですが、
そこでも、このお母さんは少ない費用で最大の効果を生み出す才能があります。
ロンドンで社交界にデビューすると莫大な費用がかかるので、
カイロでアガサの社交界デビューを果たしましたの。
イブニングドレスを新調してもらい、ダンスパーティーに興じていたそうです。
娘のすることはだいたい同じようなものですからね。場所は関係なかったかも。
エジプトの遺跡などを見てくるように母親から何度も言われていましたが、ダンスに夢中。
その後、夫とともに遺跡発掘にのめり込むことなど想像だにしていません。
ただ、ご本人曰く、
正しい時期に正しい知識を得るのが一番だとおっしゃっています。無理くり知識を詰め込まれても
「もう、知ってる」「ははーん」とバカにする弊害があるかもしれず、
受け止められる力がある時にこそ、新しい体験をする方が絶対にためになるとおっしゃっています。
私も同感でございます。
吸収できるだけの素地があるものにしか、本物の良さは理解されないですから。

「アクロイド殺し」で一躍脚光を浴びた後、しばしば取材を受けるようになり、
お決まりの執筆場所(背景には書棚)での写真撮影を頼まれるんだそうですよ。
アガサは、なんと書斎などは無くてリビングや台所の机でタイプを打っていたんだとか。
作家らしく見えるように振る舞っているだけで、職業欄には主婦って長らく書いていたらしい。
そして、興味深いのは初めて書き物机を買ったのがイラクかシリアの発掘現場だったのです。
二番目の夫の遺跡発掘に同行したアガサは、身の回りのものを入れたり、
ダイニング机代わりに使っていたのはそこらへんの木箱だったそうで、
それには全く満足していたものの、
執筆をするためには、タイプを打つので甚だ不安定ですし、何より膝が机の下に入らなくて、
やむなく購入したのが最初の仕事机だったとのこと。
そして、そこで生まれたのが「エッジウェア卿の死」だったということが、
とても印象に残っております。精神的にも物理的にも落ち着いて集中できる環境ができた頃から
本領を発揮するようになったのかなあと想像します。

アガサの傑作「検察側の証人」などの演劇用の戯曲をいくつか熱心に書いていた様子なども
自伝で読むことができます。
大喝采だったとか、こけたとか、観客の反応がダイレクトに伝わるのが新鮮で嬉しかった
ようです。売れた本の数はわかるでしょうし、次第に世界的な広がりも感じていたでしょうが、
読者の感想がダイレクトに作者に伝わるという時代ではなかったのでしょうね。
私も含めて、こんなにも刺激を受けている人間が数多いたことを伝えたいです。
しかも時代を超えて。

アガサと言えば、失踪事件がやけに有名ですが、
そのことに対する記述は「ある時期記憶が飛んだことがある……」というようなぐらいでスルーです。
お母さんの死去や最初の夫との離婚間際だった時期であり、
そこを深く追求することはないでしょう。マスコミから逃れたかったわけですしね。
「覚えておきたい思い出には、素晴らしい記憶力がある」というアガサの言葉通り
なんでしょう。
子供の頃の音楽家になる夢の挫折、母の死、夫の裏切り、離婚、財政難など辛い思い出に
ページは割きませんの。全ての自伝はかくあるべし(笑)。
二度の大戦の逸話でさえもどちらかというと、嬉しかった思い出の方を述べています。
私には描かれていないことが全てを表しているように思うのです。
どれほどのショックと傷心だったのかということを。
この伝記は長い期間を経て書かれたもののようですが、最後は75歳当時のもののようで、
ある種、愛する家族への遺言状のようなものかと感じました。
ですから、孫たちにおばあちゃんは楽しく元気に生きてきたのだと一番に伝えたかったのでしょう。
アガサが幼い頃の乳母から、こんなお話を聞かされていたそうです。
二匹のカエルがミルク鍋の中に落っこちました。
一匹のカエルは「もうだめだ。溺れ死んでしまうよ」と。そして、だんだんと沈みます。
もう一匹のカエルは「なんとかなるさ。泳いで泳いで泳ぎまわるんだ」と、言って
大きな鍋の中をグルグルと泳ぎ続けたのでした。すると、ミルクはいつしかバターになり、
翌朝、クリームの上にちょこんと一匹のカエルが乗っていたという、寓話だったとか。
希望と努力の大切さを物語っています。
大人になっても、晩年になっても、辛いときこそ希望を失わないように体現されたのでしょう。

アガサの作品の特徴は先に書いたように、事件が起こるまでの物語の描き方だろうということと、
さらに、
ミステリーの端正さ、清潔感、健康的な良識を高く評価したいと思うのです。
ミステリーという文芸は殺人が主たる題材なわけですが、それにしては死体はいつもとても綺麗で、
横溝正史的な血みどろ感はないです。思い出すところで、二つの作品はややそれっぽいものが
ありますが、一つは事件の理由がありますし、一つは前書きに書いてある通り、血みどろのミステリー
を作ってくれというリクエストに応えたものだったはずです。
つまり、残虐性やホラー趣味(やや、おどろおどろの雰囲気のもありますが、ややという程度)は
全く無いと言っていいでしょう。
それに加えて、松本清張的な犯人への過度な同情は無いように思います、哀れみは放ちますがね。
これはきっぱりと別物です。諾々と犯人の言い訳を聞かされるのは勘弁してほしいですもの。
品の良さも付け加えましょう。ミステリーのゲームとしての配役の必然性から、
変な登場人物はたくさん登場しますのよ、もちろん。意地悪婆みたいなのとか、
専制君主みたいな親父とか、鼻持ちならない若い娘やプレイボーイですとかね。
それらがあっても尚、一篇に貫かれる上品さがあるんですよ。
その中に毅然とした登場人物がいるからかなあ、アガサの人柄かしらねえ。
なかなかそういうミステリーは少ないと思うのです。
アガサ作品に私が強く惹かれる訳でございます。

アガサの作品は100冊を超え、折に触れ読み返してはいますが、
記憶力皆無の私は、タイトルはあれ、あれ。犯人は誰? ヒロインのそれ、それ。
みたいになってしまいます。
その時、大いに役立つのが早川書房のクリスティ文庫版霜月蒼著「アガサ・クリスティー完全攻略」
でございます。我が家のアガサ辞典として本がくたくたになりそうです。
おーさすが! とか、これちょっと違うなどと勝手な感想を持ちながらも楽しめますし、
こんな短い文章を書くにあたっても、実は参考になりました。
それから、映画や特にデビッド・スーシェさんの演じるBBC版ポワロも大好きです。
原作を読んでいなくて、読んだつもりになっているものも中にはありますし、
ある意味原作より、ドラマ版の方が私の好みに編集されているというものもあります。
全く別物、別媒体ですからそれぞれの良さというものがあるのでしょう。

私の人生を彩ってくれるアガサに感謝! でございます。




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