ICHIKAWA RAIZO Great!OKeiko-Practice 

2011年10月10日

DVD『 Hereafter 』

はい、こんにちは。          雪華ホーム

フローラルタウンの葉鶏頭



ヒアアフター hereafter の意味は、来世とか死後の世界という意味らしいです。
クリントさんがスピリチュアルな世界を信じているとはとうてい想像もできません。どんな話になるのだろうかと興味がありました。

視聴後の感想はタイトルがトリッキーですね。ご自身の年齢的なことなどを逆手にとってのこのタイトルだったような気がしています。
クリントさんの優しさが感じられるのは、来世というものの存在を積極的に信じてはいないが否定もしないし許容もしている、こうゆう人も中にはいるでしょう、というような客観的な眼差しだったと思います。

テーマは、死に行く人を見送った側の生身の人間の物語でしょう。

3人の人物が並列して描かれていました。一人は、津波で死にかけた。そのこと自体も充分ショッキングな体験ですが、近くにたまたま居合わせた少女を助けられなかったことが頭の中の重石になっています。自分だって必死なはずですが、もう少し手をのばして少女の手をしっかりと握ることができていたなら彼女も自分と同じように一命をとりとめたのではないか、と。一人は双子の兄が自分の身代わりになって死んだという思いから抜け出せない少年です。ほんの数分早く生まれてきた兄はなんでもすばっしっこい性質で、弟思いでしたからすっかり頼りきっていました。申し訳ないのとお兄ちゃんに会いたいのとで胸が張り裂けそうです。もう一人の主人公というべき青年は、死者を見ることが出来る霊媒者で、その能力ゆえに悩んでいます。幸福な生い立ちの人でさえ多少なりとも知られたくない過去のひとつやふたつあるものでしょう。ましてや、過去のトラウマに悩んでいる人に対するときには、決して踏み込んではならない死活問題です。死者との対話から他人の秘密を知りたくも無いのに知ってしまう苦悩はいかばかりでしょう。

私が考えさえられたことは、それぞれの重い懺悔の気持ちは、ほんとに事実なのかどうかという点です。事実だから後悔しているわけではないですよね。最初の少女はそんな近くに知らないおばさん(?)がいたことさえ気付いていなかったかもしれないし、少年の兄は本望だったかもしれない。今となっては事実なんて誰にもわからない。答えは永久に聞くことはできないのです。たぶん、問題は本人の気持ちが晴れないというただこの一点につきるんです。死者の問題なのか、今、たまたま生かされている当の人間達の問題なのか、ということです。

これってね、私の創作小説『しんまい華道教授・雪華ちゃんの事件簿』と同じテーマなんです。まあ、アイデアとかちょっとしたおもいつきなんてものは、誰にでも思いつくものなのですわ。それを一級の作品にまで仕上げて、エンタメ性も採算も考えて作り上げることができるっていうのがプロなんですわね。話が横道にそれました……

いろんな悩みをかかえている私達、人間なんですが、それを支えてくれるのは、やっぱり同じ人間でしかないような気がするのです。だけど、時々思い起こして忘れないでいることが死者に対してできる精一杯のことでしょう。

映画では、何のつながりもない彼ら3人が国籍を超え、年齢や性別を超え、出会い救われ癒されて生きていくことができるようになるんです。生きているっていうことは、人とつながれるということなんだと、クリント・イーストウッド監督からのメッセージだと受け取りました。

英国の文豪ディケンズが、映画の中の逸話としてたびたび出てきます。クリスマスキャロルの3D作品がすごく良かったものですから、それをふと思い出します。主人公は現在過去未来の自らの亡霊を見ることで反省するわけです。この映画も、超自然的な体験を通じて新しく生まれ変わった自分を取り戻していくように感じました。クリスマスキャロルの雪は3D効果の最たるものだったのですが、クリントさんの映画音楽も派手な旋律とは無縁で、はらはらと降り積もるあの雪のように、わずかづつ、でもしっかりと心のひだに入り込みます。

死後の世界があるのか、死後の世界にいる者とつながることが出来るのかは私にはとても懐疑的です。でも楽しい出来事、愉快な話をたくさんみやげに持っていけるようには、なりたいものです。あっその前に親孝行せなあかん。しとらん


クリントさん絶賛の過去記事はこちらへ。

いろいろと考えさせてくれる、素晴らしい映画にブラボー!!


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